放蕩娘日記

人生が辛い倫理オタクのブログ

大学時代、それなりに仲が良いと思っていた人間に「クソチャイナ」と言われた件について、もう数年引き摺っている。

 

香港は中国ではない(諸説あり)とか、母親はイギリス国籍がある、とかそんな事よりも

 

自分の所属している集団に、そんな無教養で不躾で差別的な発言をする人間が存在している、ということに耐えられなかったのだと思う。そういった人間の存在が自分自身の価値を貶めるような気がしていた。

集団内に外れ値が存在することなんて、統計学を勉強していなくても感覚的にわかるはずなのにね。

 

しかしながら、高校生くらいまでの私だったら、差別発言の主ではなく母親に対して怒りが向いていたと思う。

「お前のせいで私が差別されている」というような形で、母親に理不尽な怒りを向けずに、差別主義者に「無教養」と言い返せるようになった私は成長したなと感じる。

その成長に気づかせてもらったという点で、発言主にお礼を言った方がいいのかもしれないと今考えている。(さすがにアスペ仕草か?)

「親が医者だから調子に乗ってる」というようなことを、同じ大学の、関わったことのない女に言われて一年近く思い悩んでいた。

 

どちらかと言うと、私は父が医者なのが嫌だった。正月早々「ヤッター!心臓手術だ!○○万🎶」と騒ぐ父を見て、人の不幸の上に成り立っている商売な気がしていた。父へのアンチテーゼで、自殺しようとしている人を救いたいから牧師になりかったし、牧師が欺瞞だと気がついてからは教師になって子供の自殺を止めたいと思っていた。(自分自身死にたかったくせにね)(人を助けることによって自分を救いたかったんだと思う)

 

でも夢やぶれてみて、やっぱり人の命を救えるのって医療従事者だけなのかもなと思った。

そして、今はそんなでもないけど、かつてチベットやインドの無医村に出向いたり、世界中の人のために働けるように英語のスピーキングが苦手なのに国際免許を取ろうとした父は、めちゃくちゃかっこよかったと思う。父親を誇りに思うことが「調子に乗ってる」のならそれでもいいや、というのが一年近くの苦悩の末に出た結論である。

あれから何人かの男の人と付き合ってみたりして、所謂普通の女の子が言う「幸せ」な状況を何度も味わったのに、幸福でないのは、貴女が残した棘が心から消えないからだと思う。

 

彼女といた時間より尊い時間が、2015年3月から更新されずにいる。上書きできるような楽しいことがない、というわけではないはずなのに。

 

バリバリ広島人の父親なのに父親がアメリカ国籍があるからアメリカハーフだ、と言ったり、父親が医師と弁護士のダブルライセンスで、医師の方はペーパーだから専攻がない、と言っていたのも、私と話を合わせるためについてくれた嘘なのかと思うと、私の代わりに十字架を背負ってくれたように感じて、なんだか尊く感じてしまう。

 

虚言癖の女は沢山見てきたけれど、皆くだらない経歴詐称みたいな嘘しかつかなくて、彼女のように美しくて面白い嘘で私をワクワクさせてくれる女は一人としていなかった。

もしもまた出会えるなら、また面白い話を聞かせて、私の瞳に光を与えてほしい。

それができないとわかっているから、あの西条の夜に、蜘蛛の巣に引っかかってしまった蝶の如く、君の吐く美しい嘘に絡め取られたまま、身動き取れずに衰弱して死んでしまいたかった。

 

貴女に貰った兎の文鎮は、開封できないまま実家の本棚に飾ってある。貴女が貸してくれた本を、今の恋人が読んでいるのを見て、遅効性の毒を感じた。

 

人生の大分早い時期に、「自分はきっと親の理想に応えられないんだな」ということを悟ってしまい、それ以降ずっと大学受験までに死ななければならないと思っていた。

小学生の頃に『人間失格』を読んで、親の期待に背いた人間の末路の残酷さを知ってしまったのも、希死念慮の一因ではあった。

 

というわけで高校時代の私は隙あらば死のうとしていた。服薬、服毒、入水、真冬の鎌倉湾、教会裏のログハウスから飛び降り等々…。そんな私を見兼ねたのか、当時好きだった女はいつも別れ際に、さようならではなく「生きて帰れよ」と声をかけてくれた。

 

彼女に「生きて帰れよ」と言われたから、もう30も近いのに、生きている。

後悔

父親が累進課税による高額納税に嫌気がさして、仕事を辞め、家で廃人のように爆音で戦国BASARAをプレイして日々を過ごすようになった時、同級生の生活保護で暮らしている女に「お前みたいなのがいるから父みたいな人が苦しむんだ。お前もお前の母親も、水商売でも風俗でも何でもして自分の力で生きていけばいいのに」と言ってしまったこと、今でも時々夢に見て苛まれている。

そしてその時好きな女に私が放った言葉は、私への痛烈な呪いとなって残った。

私は今も障害者手帳や自立支援を申請できずにいる。

十字架

遠縁に、桜蔭高校から国立音大に行って発狂した女性がいた。父親の再従姉妹だ。

私はその女性と同じ、目の下に笑窪があったから、祖母に心配されていた。ピアノも早いうちにやめさせられ、油画も禁じられた。

 

身を立てられるほどでないのに中途半端に芸術に傾倒したせいで発狂した人間が周りにいるせいか、両親の芸術アレルギーは凄かったし、それへの反発で私は中原中也の「芸術を遊びごとだと思っているその心こそあわれなりけり」という短歌を引用してブチ切れたりしていた。

 

妹が発狂した。

妹は私の身代わりになってくれたのだ。

 

それは「運命はわたしが持って行くから!」といって、菊花賞でするはずたった足の怪我を持っていったアヤベさんの妹と重なってしまう。

 

私はこれから先、一生、妹への罪悪感を感じて生きてゆくわけだ。

でもそれなら私が妹の不幸を全部背負って死んでしまいたかった。

メイド

祖母の家には2人のメイドがいた。インドネシア人のムジとフィリピン人のアジ。

アジは英語が堪能だったが愛想が悪くて苦手だった。一方、ムジは言葉が通じなかったが、私と妹に優しくしてくれたのが印象的だった。スマホ等がない頃に、彼女なりに調べて林檎をうさぎの形に切ってくれたのは、私と妹が日本を恋しがってるのを察してくれたからだろう。

 

ムジはインドネシアにいる旦那さんに送金していたが、彼はそのお金で別の女性と逃げてしまったらしい。あんなに優しい人を裏切る人がいるということが、子供の私には衝撃だった。

 

祖母が亡くなってから、2人の話を聞かなくなった。2人とも、どこかで元気にしていてほしい。