放蕩娘日記

人生が辛い倫理オタクのブログ

ジャッジメントの話

みんな何かしらかを批判しないと生きていけない、のかもしれませんが最近日本人皆ファリサイ派なのでは?というくらい無用なジャッジメントを受ける機会があったのでそのモヤモヤを書きます。

例えば、恋人と数百回性交渉した女と不定の数人の人間と1回ずつ性交渉した女がいたとして、批判されるのは後者の女性だけです。どちらも姦淫していることには変わりないのにおかしな話です。エレミヤという預言者は物事の罪は罪の大きさの大小ではなく、その人の心のあり方によって決まるという見方をしていました。またイエス・キリストも同様ですね。しかしながら皆、罪の大きさの大小を自分達で勝手に決めた基準で(そしてそれを「倫理」と呼ぶのです)はかり、勝手に裁いている現状があります。

出エジプト記2章にもありますが、人が人を裁くことは悪だと思います。

数百回不特定多数の人間と寝る女は、寝た男を幸せにしていると仮定すると、功利主義の視点では彼女は多数の幸福を生み出すことに貢献しており、善であるとすることが出来るはずです。

「倫理で世界が救えるか」というのは大きな命題であります。倫理(笑)で赤線を規制した後も未成年による援助交際はなくなっていません。彼らの言う倫理は少女達を救い得なかったのです。

中世ヨーロッパのキリスト教徒は使徒信条運動の中で、行動の基準を「あなたがイエス・キリストであったらどうするか(What Jesus would do )」に置いていたそうです。日本でも「嘘も方便」なんて言って他者のためにつく嘘は許したりしています。ガバガバな倫理、個人内の倫理を世間の声なんて言って裁いていいのでしょうか。その人の心のあり方が正しいのならば行動の一挙手一投足を叩くのは間違っていないでしょうか…。

なんてことを風俗嬢を裁いている女の言葉を聞いて考えていた朝でした。今日も満員電車に乗って大学へ向かいます。満員電車では人間は混雑でストレスを負わないように他者を物体として認識すると心理学の授業で習いましたが、それが本当であればゾッとします。人が人をモノとして扱う時、人間の尊厳は死んでしまうから。