放蕩娘日記

人生が辛い倫理オタクのブログ

年代記(未完)

初めて受けた模試は全国14位でした。次に受けた時は全国25位で、私は選ばれた側の人間なんだと思っていました。麻布の元彼は初めて受けた模試全国6位だし、開成の元彼は初めて受けた模試全国1位だったので、実は私は大したこと無かったんだと、20歳になって知ったわけですが。

私には顔が良くて、あまり頭の良くない妹がいました。親戚は皆、妹をかわいいかわいいと褒め、私を賢い賢いと褒めました。私だってかわいいって言われたかった。

祖母と父は、私にいつも「お前は顔が良くないから東大に行かないといけない」と繰り返していました。毎年春に、サンデー毎日に進学実績一覧が出る度に、祖母に桜蔭に落ちてフェリスに進学したことを詰められるから春が嫌いでした。そこから逃れるために、ロリコンの塾講師と駆け落ちした春もありました。

勉強は好きでした。いや、勉強というより研究が好きでした。高校生にして2万文字の論文を1年で2本書くくらいには、社会科が好きでしたし、ルーズリーフ100枚近く作家研究を書きなぐるくらい、日本文学を愛していました。そんな事ばかりしていて受験勉強に手が回らなかったから、学費が安いだけが取り柄のカトリックの大学へ行くことになりました。

神とは決別したつもりでした。学歴社会、競争社会から逃れたくて、中学生の時牧師になろうとしていました。その前は従軍慰安婦になろうとしていました。話が逸れました。牧師の学校への推薦状を親に破棄された時、地元の教会の牧師と、聖書の先生と、教育実習生の兄ちゃんが私の親に怒鳴りに来ました。神との完全な分断を感じました。だから私は、あの日日吉公園で、自らの意思でなく婚前交渉をして、二度と聖職者を目指せない体になってしまったのだと、思い悩んでいます。

高校の卒論で宗教について書きました。そこで祖父との間にあったことを書きました。えりか先生は私のために泣いて祈ってくれました。クリスチャンの人って優しいなと純粋に思いました。論文を家に持ち帰り、机の上にうっかり置いていたら母親に勝手に読まれていて「家の恥を外に出すな」と頬を殴られました。

小学生の頃、祖父に会うのが苦痛でした。祖父母の家に行くと、妹が泣き出し、かわいい妹を祖母があやすので、私はいつも奥の部屋で祖父と2人きりでした。祖父は気難しい顔をして、ミルトンの失楽園ばかり読んでいました。祖父の気を引く方法を、7歳の私には思いつかず、胸が成長痛で痛い、と何故かそのようなことを祖父に言ってしまったのです。祖父に揉まれて膨らんだ胸を、祖母はお前がいやらしいからデカくなるんだと罵倒しました。小学校の同期にも、水泳の度に胸について言われて嫌でした。この胸を何とかしないといけない、これ以上成長したくない、そう思って、中学受験が終わり時間が出来てからは、ずっと吐いていました。身長も胸の成長も一度そこで止まりました。高校生の時、胸の小さい学友数人と貧乳同盟というユニットを組んだ時、酷く安心したのを覚えています。

大学生になり、もう吐かなくても良いと言ってくれる男と付き合って、胸はどんどん大きくなりました。胸が大きくなればなるほど、男は私に優しくなり、女は私に意地悪になりました。私はいつしか胸しか取り柄のない馬鹿な女になっていました。中学生の頃の自分が1番なりたくなかった人種に成り下がっていて、いつも心の中の子供の自分が怒っていて、苦しいです。

私のことを好きになる人はみんな巨乳が好きだけど、それって私じゃなくても全然いいってことなんだなと思って不愉快です。これは多分中学受験御三家スタンプラリーをしていた自分への報いなんだなって思います。

でもこの前、乳癌で胸を切ったとしても私の元に通い続けると言ってくれたお客様がいたので、もう暫くは生きていたいなと思いました。