放蕩娘日記

人生が辛い倫理オタクのブログ

太宰治はイエスの「汝の為すべきことをなせ」「己を愛するが如く隣人を愛せ」という言葉に縛られて死にましたが、私は「痛みを伴わない愛は愛ではないのです」という言葉に縛られて生きています。

 

好きだった女は、人のリストカットを見て性的興奮を覚える人間でした。アラサーメンヘラのリストカットブログにコメントをし、自分のために手首を切らせて喜んでいました。私は彼女を喜ばせるために手首、太腿、足首、腕を切って彼女に見せていました。その痛みは私が彼女を確かに愛した証拠だと思っていました。

 

別の恋人は首を締めるのが好きな人でした。首を絞められ、顔を踏まれ、太腿に煙草の灰を落とされ、喉に手を入れられました。相手に痛みを与えられるたびに、私は相手を愛しているからちゃんと痛いんだ…!と思っていました。

 

パブロフの犬はご存知ですか。ベルが鳴ると条件反射で涎を流す犬。私もあの犬のような従順さがほしく、いつも指を噛みながら彼を思って祈っていました。3ヶ月続けた頃からでしょうか。彼を想うと指が痛くなり、祈りの手をすると彼を想って涙が流れるようになりました。自分で自分を神経症にすることは、痛みを伴った愛の実践だと思っていました。

 

神様のことを考えると心が痛くなるのは、私がやっと神様を愛することができたからなのでしょうか、それとも神様からの罰なのでしょうか。それよりも人差し指の方が痛むのは、私が物慾にまみれた救いようのない落伍者だからでしょうか…。私が神になって人を救わないと、私自身が神様に救われないような気がするのは、親からの愛で満たされなかった大人になりきれない子供のままだからかもしれません。心理学を勉強して空いた穴を自分で塞がなければなりません。痛い。とても痛いです、私の穴は埋まらないです。傷跡は瘡蓋が剥がされ続け色素沈着してもう元には戻りません。私は痛みを伴う想いを持っても、人を愛せませんでした。