放蕩娘日記

人生が辛い倫理オタクのブログ

みゃ〜

もし、私がずっと理系であることをやめていなかったら、言外の意味を勝手に読解して苦しくなることなく生きられたのかな

「AだからBである」という命題は、「A=B」を示すためだけの言葉であるはずなのに、「Aという条件が提示されてるということは本当はCって思ってるのかもしれないし、深層心理にはDがあるかも……」とか全部全部余計なはずなんだよね、ほんとは

 

勝手に妄想して勝手に傷ついてバカじゃん?

 

私の目の前にいる君のことが好きなら、目に入らない間の君がどうであっても良いはずだよね?

連絡くれないということは、私を好きでないことを意味してないし、会ってくれないってことは私にリソース割きたくないって事までは示してないんだよね?

ただ事実として「時間を取れない」だけであって、「忙しいから=時間を取れない」だけでそこで「≒私のことをもう好きではない」まで繋げたら論理の飛躍なんだよね?

えりか先生にいつも「論理の飛躍がひどい!こんな要約を書いているようじゃ東大には行けませんよ」と言われていたから、私が間違ってるんだよね、きっと

 

でも私の勘はよく当たるので、もう既に終わりを感じて悲しいです

「愛のネタバレ、別れっぽいな」じゃないけど既にその機運があるような気がして 

 

会えなくても淋しくないって思ってなくても言うようになって、大人になったなって自分でも思ったけど、でも泣いて喚いて会いに来させていた頃の自分の方が私は私らしいと思うんだけど、でもそれは未成年の特権だなって年を取った今分かってしまうので、好きな人の重荷になりたくないし、気休めの切れ端を千切って今日も凌いでいます

人が他者に割ける愛の総量は決まっていて、限りがあるから、あの時私がわがまま言ったぶん当時の恋人との別れが早まったのだと、今ではわかるけど

限りない愛とか、永続性とか、アガペーとか、私はずっとずっと信じてたかったし、それに包まれて生きていたかったな