放蕩娘日記

人生が辛い倫理オタクのブログ

ロゴス

はじめから「言葉」があったわけではなかった。英語と広東語の罵声は、幼い私にとっては単なる「音」でしかなかった。私が日本語でなにか反論すると、日本語を浴びせられているという現象に母親が耐えられなくなってぶちギレ、怒られた私は近所の山やベランダに放置されていた。

この家に「論理」というものは存在していなかった。皆感情に突き動かされて生きていた。そのうえで他人の感情に対して配慮をしない人達だった。

私は泣かない子供だった。泣いても無駄であるということを人生の早いうちに知ったから。大泣きして母親・父親に「うるさい!」とさらに怒鳴られ殴られて、それが嫌でずっと泣き続けている妹を横目に見ながら馬鹿だなぁ、と思っていた。

うまく日本語が話せなかった。らりるれろ、となにぬねの、の音の違いがわからなかった。てにをはなんて知らなかった。そのことで自分より頭が悪い、純ジャパに生まれて日本人の母親に育ててもらったと言うだけで、日本語ができるというだけで、バカにしてくるクソガキたちが憎かった。小学生なのに徹夜で夏目漱石司馬遼太郎を読んで、文字通り血が滲むほど日本語の勉強をした。中学受験では全問記述試験の問題を出すことで有名な学校に入学するくらいには、成果が出せた。

今でも時々考える。母親が日本人であったら、もう少し生きやすかったのではないかと。

母親に何を相談しても「うるさい!日本語をリスニングさせるな!」と怒鳴られなければ、一人で抱え込まずに済んだのかな。教師を誑かして駆け落ちせずに済んだのかな。神奈川県警の前で三行半を書くのは、13歳の私にはとっても辛かった。